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報道写真は生成される? - 「世界報道写真展2010」報告

「世界報道写真展2010」(会場:東京都写真美術館)は,世界128カ国から応募された報道写真から優れた作品を選ぶという,世界最大規模のコンテストです。

今回,大賞を受賞したのは,イタリア人写真家のピエトロ・マストゥルツォ。先からHPや雑誌などでその紹介記事を見ていたのですが,そのときからひとつ,ひっかかることがありました。

その写真がちょっと“美しすぎる”ということです。



identifiable, or not identifiable
実はピエトロ・マストゥルツォの写真を巡っては,審査員の間でちょっとした論争がありました。大賞を受賞した彼の写真は,テヘラン市のある建物の屋上で抗議の叫びをあげる女性の写真なのですが,一部の審査員から「一見してそれと判らないような写真に大賞を授与していいものか?」との異議が出されたというのです。

世界報道写真+大賞+ピエトロ・マストゥルツォ(イタリア)_convert_20100710215422

確かに彼の写真からは,「テヘラン大統領選における不正疑惑に対する抗議」という政治的コンテクストはほとんど読み取れず,むしろ何かの映画の中の静謐な一シーンに見えてしまいます。女性が身に着けるヒジャブと彩度の低い画面構成から,それがイスラム圏の国における「何かただならぬこと」であるということがかろうじて判るくらいです。


報道か,アートか
ここには報道写真と非報道写真≒アート写真との境界にも関わる問題が現れていると言えるでしょう。何かの事件が起こっているということが明確でない写真を「報道写真」と呼んでいいものか。マストゥルツォの「報道」写真とスティーブン・ショアの「芸術」写真との違いは何なのか。「報道写真家」と「芸術写真家」の違いという、写真家の職業的自意識に還元されてしまうようなものなのか。

実はこのことは,マストゥルツォに限ったことではありません。彼以外にも、ケント・クリッヒというスウェーデン人がガザの倒壊した民家のインテリアなどを撮った写真などは,その事件性よりも光の効果による「美しさ」のほうに目が奪われてしまう。しかも写真家も少なからずそれを意識的に演出していると思われるのです。

しかし,一般的には事実を客観的に語りつくすものだと思われている「報道写真」と,鑑賞者の解釈への依存性が高いアート写真との間には,実はそれほど明確な差異がないとも言えます。実際,世界報道写真の審査委員の中には,一枚の写真が「すべて」を表現すべきであるという発想そのものが「幻想」なのだ,と主張した人もいたようです。今回,委員会がマストゥルツォの写真のような「報道とアートの境界のあいまいさ」を敢えて意識させるような作品に大賞を授与したことは,こうした問題意識を呈示する意図があったようにも思えます。


美にジェノサイドをしのばせる
結局,報道写真を報道写真たらしめているのは,写真そのものの性質や写真家の自意識ではなく,写真を取り巻くジャーナリズム的な意味構造にあるように思われます。特に写真に付されるジャーナリズム的言語メッセージ,すなわち「キャプション」が重要であると言えるでしょう。ロラン・バルトは「映像の修辞学」というエッセイの中で,キャプションを含む「言語的メッセージ」には,不確かな記号の浮遊を生み出す映像の多義性を特定のコノテーションへと「投錨」する機能があると述べます[ロラン・バルト「映像の修辞学」(ロラン・バルト『第三の意味』(みすず書房)所収),p31-]。つまり,マストゥルツォのほとんど芸術的とも言える作品は,鑑賞者が「テヘラン大統領選における不正疑惑に対し抗議する女性」というキャプションを読んだ瞬間に,政治的なコノテーションを生み出します。つまりここには,報道的な意味生成の過程が存在するわけです。

この辺りの事情を熟知していると思われるユニークな写真家がいます。サイモン・ノーフォークという人です。彼は世界各地の戦地に赴き,大量殺戮(ジェノサイド)が行われた場所をカメラに収めます。彼の作品がユニークなのは,その作品のどれもがこの上なく美しいということ。しかもそれが写真家によって巧妙に意図された演出だということです。

ノーフォークの美しいジェノサイド写真を観た鑑賞者は,「『ほう,きれいだなあ』と見入ったあとで横の解説を見て,『ここで1万人が死んだのか…』と意外な事実を知」ります["Photographica Vol.13, 2008, p170]。つまり純粋(かつほとんど無垢)な受容の段階から,報道的(かつ原罪意識的)意味生成の段階へと至るプロセスを敢えて演出することにより,鑑賞者をより深く政治的問題意識に誘うわけです。これをノーフォークは「美の中にジェノサイドを忍ばせて,手招きする」戦略と呼んでいます["Photographica Vol.13, 2008, 同上]。

ノーフォークのような人は稀有かと思いますが,戦略的に芸術写真から報道写真を生成してしまうという方法は,今後の写真技術のひとつのあり方として大変示唆的であると思います。








コメント

iuriiさん、お久しぶりです。
ブログ越しにiuriiさんのツイートぶりを眺めておりました。

報道写真展、大賞を獲った一枚については私も疑問を持ちました。
写真横の説明文を読まなければ、まったく理解できない。
戦争の前線、要人の暗殺現場など、目を覆いたくなるような「まさに報道写真」といった写真が並ぶ中
ところどころで報道性以上に芸術性を意図的に重視されて撮られたであろう写真。

「なぜ報道写真を撮るのか。」
iuriiさんの言うとおり、結局はこの問題に回帰しているのかもしれませんね。
記録、記憶に残すだけでなく、それ以上のメッセージを残すためには
良くも悪くも「美」を追求することも手段の一つとして有効なのかもしれませんね。

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